彫金師・長谷川清さん

Kiyoshi Hasegawa彫金師・長谷川清

手で決めた形は、
なぜ毎日の道具になれるのか。

UMAKUの柄は、既成の筒から選んだものではない。毎日手に触れる場所だから、光を受ける面も、指の掛かる稜線も、最初の形からつくった。その起点となる銅の原型を担ったのが、燕の彫金師・長谷川清さんだ。十五歳で師匠のもとへ入り、洋食器の原型と金型を彫り続けてきた。仕事の来歴をたどると、一つの包丁の柄に、燕で受け継がれてきた技術と、長谷川さん自身の生き方が重なっていることが見えてくる。

十五歳から続く仕事

燕の彫金と共に

彫金の仕事は、どこから始まったのでしょうか。

十五歳で師匠のところに入って、十年いました。最初の四年間は、夜間の定時制高校に通わせてもらいながらです。八年目からの二年間は、さらに厳しく教え込まれました。師匠は、できないと言えば『やってみなければ分からないだろう』と返す人でした。厳しくするのは、弟子が独り立ちして飯を食えるようにするため。今こういう仕事ができるのは、あの時間が地盤になっているからだと思います。

独立してからは、どのような仕事をしてきたのですか。

最初に多かったのは洋食器です。スプーンやフォークの原型を彫るところから始まりました。彫金屋の仕事は、もともと煙管(きせる)やかんざし、刀の鍔(つば)などを彫ることだった。戦後、燕に洋食器の産業が根づいてから、彫金屋もその周りの仕事に関わるようになりました。私は、その時々に求められる金属の形を彫ってきたということです。

仕事を続ける

片目と、作品

五十二歳で片目の視力を失ったことは、仕事にどう影響しましたか。

入院している間に、頼りにしていた取引先が離れていきました。退院したとき、私はまだ五十二歳で、子どもも大学生でした。けれど、企業に逆恨みをしたって始まらない。自分だって、同じ立場なら片目の彫金師へ頼むのをためらうかもしれないと思ったんです。それなら、自分の作品をつくって名前を知ってもらおうと、展覧会に本気で向かいました。あのとき感じた冷たさが、いままで仕事を続けるバネになったんでしょうね。
片目だって、彫れるんだぞ。

全国規模の美術公募展『日展』へ出す作品に、なぜステンレスを選んだのでしょうか。

六回続けて落ちて、次でだめなら日展を諦めるとかみさんに話していました。ある夏、かみさんが切ったスイカを持ってきた。その半月の形をテーブルで転がしているうちに、五つを組み上げる作品を思いつき、それが初入選になりました。それまで銅でつくっていたけれど、銅では美術大学の先生方にかなわない。それなら、燕の産品であるステンレスを自分の武器にしようと思ったんです。燕には、合わせる、曲げる、仕上げる、それぞれの仕事を任せられる職人がいた。自分一人ではなく、町の技術も作品に引き込みました。
長谷川清さんの日展入選作品
日展入選作品。作品名と制作年は確認中です。
長谷川清さんの日展入選作品
日展入選作品。作品名と制作年は確認中です。

受注の仕事を続けながら、なぜ作品もつくるのでしょうか。

生活のための仕事があるでしょう。実際のお客様が大事だから、本業をメインにしてきました。仕事が空いたときや、土曜、日曜の誰にも邪魔されない時間に、叩いたり、彫ったり、つくったりする。お金にならないことばかりしているけれど、面白がってもらえれば、それでいいと思っています。

毎日の道具へ

UMAKUの柄をつくる

UMAKUの柄で、難しかったのはどこでしょうか。

左右二つの部材が合わさる境目だった。つなぎ目で稜線が途切れず、光を受けた面がきちんと立ち上がるように、銅の原型をつくっては直した。その形を金型へ渡し、ステンレスの板材を中空の柄へ成形する。
UMAKUハンドルの銅原型を段階的に並べた様子
面と稜線を確かめるため、段階を重ねてつくられた銅原型。

長谷川さんが完成品を一本ずつ彫るのではありません。手で決めた輪郭を、毎日使える製品として正確に繰り返すための原型づくりです。

銅原型が手で面と稜線を決め、金型が輪郭を写し取り、プレス成形がSUS304を中空の柄へ、正確に繰り返す。

燕の彫金を取り巻く状況は、以前と変わりましたか。

私が独立した頃は、彫金屋の会員番号が九十何番でした。それから独立した人もいたから、この小さな町に百軒ほどあったと思います。今は五、六軒くらいです。とくに、型の内側を合わせたり、一枚の金属を空洞の形へ合わせたりできる人は、ほんとうに少ない。脅すつもりはないけれど、つくれる人がいるうちに次の仕事をしないと、技術そのものが途切れてしまいます。